図鑑を見て育った少年時代、益田氏との仕事/図鑑『新版 ウミウシ』小野篤司さんインタビュー

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2020年6月に発売された『新版 ウミウシ』著者である小野 篤司さんにインタビューを行いました。

小野 篤司(おの あつし)…ダイビングガイド。ウミウシ愛好家。代表的な著作に『ウミウシガイドブック』『沖縄のウミウシ』、監修した図鑑に『ウミウシ―生きている海の妖精』がある。

伊豆海洋公園での日々

――まずは小野さんご自身のことについて。現在は座間味にてダイブサービスを営んでおられますが、最初から海のお仕事をされていたわけではないんですよね?

そうですね。一度社会に出て、二十代前半からです。でも、その頃も特に「海に関する仕事」を求めたわけではありませんでした。

卒業後、最初に入った会社では通勤、就業でまったく太陽を見ることができず、胃がだんだん悪くなっていく実感がありまして。思い切って学生時代にアルバイトをしていた伊豆海洋公園に飛び込んだのです。太陽の光を求めたようなものですね(笑)。

――どういった仕事をされていたんですか?

カウンターでのダイバー接客やタンクチャージがメインです。それに、毎朝フリッパー(ダイビングでいうフィン)のトレーニングを学生に負けないで終えること。あとは、標本用に魚を採集したりもしました。

伊豆海洋公園で働くようになった当時、海には日本の図鑑に載っていない海洋生物がたくさんいたんです。陸の生物とは比べ物にならないくらい。そこで図鑑に載っていない、検索できない生き物に出会ったら研究者に送っていました。職場で自分のつかまえた魚が新種論文になったこともあって、そこにビビッときました。まあ、自分の名前でなく上司の名前になってしまうんですけどね。愛好家もエンジンかかると働きます(笑)。

――新種!どのくらい発見したか覚えていらっしゃいますか?

もう忘れていますね。キマダラハゼとか…。

キマダラハゼ
キマダラハゼ

あのハゼは上皇陛下も私が捕まえたということをご存知だったと聞いています。

上皇陛下…ハゼ類の分類学を長年研究されていることでも有名です。

その後数年経って知識が増えてからは図鑑づくりのための出張もありました。社長である益田さんと一緒に各地の研究者を訪ねたり、ときに大学の研究者も交えて南日本、沖縄と。潜ることも多々あり場所によっていろんな生物に会えますし、自分に合った仕事だったように思います。

――当時の小野さんは最終的にダイブサービスを始めたり、ウミウシ図鑑をつくったりといったイメージを抱いていたのでしょうか?

その時点では将来についてまったく白紙でした。

手伝っていた図鑑づくりも対象はウミウシではなく魚でしたしね。小中学生の時のアクアリスト経験が活きましたけど。出張先の大学では研究者から魚の学名がポンポン出てきますが、こちらも小学生のときから日本に入ってきている普通の熱帯魚はほぼ学名で言えましたから臆することもなかったんです。

――ええ!アクアリスト、小中学生の頃からだったんですか!?

図鑑とともにあった少年時代

――アクアリウムを始めるきっかけはなんだったんでしょう?

小学5年生の私が山で拾った石を当時大学生だったアクアリストのいとこが見て「水槽に入れたらカッコいいかも」と言ったのがきっかけです。そこからは、もうイメージが膨らんで。配置や入れる魚の選定を絵にして…

――なるほど。実物の魚にも早くから触られていたんですか?

家の石庭に大きな池があって祖父が大きな鯉や鮒を入れていたので、それを掬って遊んでいましたね。川釣りは父方の祖父、海釣りは母方の祖父が専門で、よく連れて行ってもらいました。小学3年生~5年生くらいかな。熱帯魚は小学5年生で始めました。淡水魚です。アマゾンメイン。

現在飼っているスポッテド・メチニス。

実はこの時すでに自前の図鑑をつくっていまして、適正水温やPHも書いていました。地理の勉強にもなりました(笑)。そして、実は写真と文字の配置は『ウミウシガイドブック(1999年)』とそっくりなのです。『ウミウシガイドブック』のときは、図鑑といえばこのパターンしかないと考えていました。

――いつか図鑑をつくってみたいと思っていたんでしょうか?

考えたことはありませんでしたね。どの分野もスゴイ先達がたくさんいらっしゃいましたから。

ただ、思えば子ども時代はいろんな図鑑を見て育ちました。当時の保育社の蝶類図鑑は今でも大事にしています。保育社の熱帯魚図鑑は高価で買えなかったので小学校の図書館で借りていました。借用者の欄に私の名前が50以上並ぶほど借りてボロボロにしてしまい、翌年から禁帯出のシールが貼られてしまったこともあります。

それに、小学生の時は図鑑を参考に、いわき市での確認リストも作っていました。生物の生態というよりその存在自体に興味があったんです。やっていることは成長していません(笑)。

――世のダイバーたちが大人になって急に目覚める楽しみ方が子ども時代から板についていて、人生に無駄がないですね。大学は生物に関する学部ですか?

経済学部(笑)。

――ええ!

株を少し。ストップ安を食らったことがあるのが自慢です(笑)。

――生き物や海の方面に進まなかったのは何か理由があったのですか?

「東京に出たい」というのが最優先事項で、あとは何でもよかったんです。東京というエリアでの生活はすべてにおいて夢でした。

ジャズにのめり込むきっかけにもなりました。FM東京を聴いて(笑)。

――ジャズですか。小野さんは気になった世界にどんどん入っていきますね。

こういうのは人との繋がりでもありますね。ありがたいことです。大抵、キーパーソンがいる。

――わかります。でも、そういう出会いを引き当てるのは小野さんのセンスが働いていたようにも思います。海のことで言えば、小野さんにとって益田さんはキーパーソンのおひとりだったんでしょうか?

最も大きなキーパーソンでした。魚類学者との繋がりも彼がいたからです。

益田 一(ますだ はじめ)…伊豆海洋公園設立者。世界に誇る図鑑『日本産魚類大図鑑』を世に送り出した。

益田 一氏との出会い

――益田さんとの出会いについて聞かせてください。

ゼミの同級生にダイビングの話をしていたら、父親が東海大の教授で、そこにいい講習所があると教えられたんです。当時スパルタで名を馳せた講習所でした。それが益田さんが所長をしていた東海大学潜水訓練センターです。そこでの講習中、益田さんから「フリッパー速いな、夏バイト来るか」と声をかけられたのがそもそもの始まりでした。

――東海大学潜水訓練センターのトレーニングメニューはすごく厳しかったみたいですね。

今のダイブマスターのカリキュラムより遥かに難しいレベルですね。私はイレギュラーの日程で特別に入れてもらったので、さらに過酷なスペシャルメニューでした。スタッフいわく「お前は変な日程で入ってきたのでキッチリしてやったんだよ」と。

今ではやらなくなったトレーニングですが、3mプールでの立ち泳ぎで腰に適正ウェイトをつけ、さらに両手で5キロのウェイトを持つところ、7キロのウェイトを持って泳ぐとか。しかも、最後の数分はスノーケルなしで顔を出さなければいけませんでした。いよいよ浮いていられなくて沈んでみたらインストラクターが慌てていました(笑)。

――どういう状況を想定しての訓練だったんでしょう?

状況というより、いかにフィンキックを有効にできるかです。地獄を味わう、限界を知るという意味もあったと思います。強くなりますよ~。めったなことでは死にません。

――益田さんのお写真を見る限り温厚そうに見えるんですが、指導中はどんな様子でしたか?

水中にバシャっと杖を入れるのが益田さんの合図で、水から顔を上げると、ああしろこうしろと指導を受ける感じでしたね。

私が社会人スタッフになってからもフリッパーの練習中によく見に来ていました。5キロを1時間13分で泳いだ時は「よくやった」って高級トンカツ屋に連れて行ってもらいましたけど、体が疲労困憊で油ものを受け付けない(笑)。でも、美味しいので意地で食べました(笑)。

――なるほど。益田さんは体にも胃にもスパルタだったんですね(笑)。伊豆海洋公園でのアルバイトはどうでしたか?

夏休みのアルバイト期間は他の大学のダイビング部の精鋭がたくさん来て切磋琢磨していました。みんな歴代チームで来ていたので私は一人ぽつんと。でも面白かったなあ…。

益田氏の図鑑づくり

――益田さんの図鑑づくりにも関わられたとのことでしたが、どんなことをされていたんですか?

関わるといっても、図鑑関連はみんな益田さんが抱え込んでいたので、私らはほんのお手伝いです。益田さんから「写真見せてみろ」と声がかかることもあれば、伊東の鮮魚店まで発注した魚を受け取りに行って標本写真を撮ることもありました。4万円のクエを買って写真撮影した後、食べられるのかと思いきや益田さんが自宅に持ち帰ってしまって据え膳…なんてこともありましたね(笑)。

――残念でしたね(笑)。標本撮影もされていたんですか。手先の器用さを求められる繊細な作業というイメージです。

ちょっとしたテクニックが必要なんですが得意でした。標本にする魚に合わせて溝を作り、体は溝に、鰭はきちんと上下に伸ばして撮影します。蝶と同じですね。鰭立てはやはり小さな魚ほど難しいです。細い針を使うので、志賀昆虫から買っていました。

――マクロ撮影するような生き物も標本にできるものなんでしょうか?パッと浮かぶので言うと、たとえばガラスハゼなど。

ガラスハゼは大きいので楽かな。ゴマハゼあたりになると特別なやり方があみ出されているようで、私はちょっと。

――撮影セットはどんな感じだったんでしょう?

真ん中にカメラを上下させるシャフト、左右からアームについた各500Wのライト、下に水を張った水槽とそれを持ち上げる瓶という構成でした。白い紙を入れて白バックにすることがほとんどで、黒にするのは特別な時だけです。大型で購入できないようなシロモノは市場でちょっと借りてダンボール背景でちゃちゃっと撮ることもありました。箱入りの撮影セットをフィリピンや西表島、有明海なんかに持って行ったなあ…。

――なるほど。各地の研究者を訪ねたというのは?

『日本産魚類大図鑑』の時ですね。あの図鑑は執筆もそれぞれの分類群の研究者で、益田さんはまとめ役だったんです。それぞれ専門の魚類の第一人者がいますからね。舞鶴は深海魚、長崎はタイ形魚類というように。

――印象的だったのは?

琉大のオドリハゼとテッポウウオです。オドリハゼはその名の通り踊るんですよ。紅海の論文があって。まだちゃんと和名もついていない頃でした。テッポウウオはアクアリストのファンが多い魚ですが、日本産の標本がなかったんです。

『日本産魚類大図鑑』ではオドリハゼの標本は採れましたが、テッポウウオは間に合いませんでしたね。

――いろいろなご経験をされたと思いますが、「子どもの頃に親しんだ図鑑をつくっている」という感慨深さはありましたか?

それが、そうした気持ちはありませんでした。しっかりした材料を出せば、あとはあっちの仕事、みたいな(笑)。図鑑づくりの面白さは独立後に『ウミウシガイドブック』をつくった時からです。わからない生き物がたくさんいて、そのピースをどこに埋めるか、ということを考える必要がありましたからね。魚の図鑑はピースの場所はすでに決まっているので考える必要がないんですよ。幼魚の確定は大変ですけど。

――そうだったんですね。図鑑が完成した後くらいに伊豆海洋公園を退職されたんでしょうか?

そうですね。会社は講習と器材販売に舵を切り、お役御免でした。それで、「水中写真を好きなだけ撮って海から足を洗おうかな」と座間味に移住して。で、そのまま居着いちゃった。

――なぜ座間味だったんですか?

昔から益田さんと付き合いのあるショップがあったので、そのツテで。図鑑の時に私も世話になりましたしね。

――そうだったんですね。最初はどのくらい滞在する予定だったんですか?

2年くらいです。海自体はいろんな海で潜ってきたので特にどうってことはなかったんです。が、奥さんができた。もし、さっさと帰っていたらウミウシ図鑑も生まれませんでした(笑)。たぶん、いわきで化石を掘っていたでしょう。面白いのが出ているんです。フタバスズキリュウっていう。

――化石!小野さんの好奇心はどこまでも広がりますね。

次ページ「ウミウシをもっと楽しむには」に続く

  1. 図鑑を見て育った少年時代、益田氏との仕事/『新版 ウミウシ』小野篤司さんインタビュー
  2. ウミウシをもっと楽しむには/『新版 ウミウシ』小野篤司さんインタビュー
  3. 『新版 ウミウシ』製作秘話/『新版 ウミウシ』小野篤司さんインタビュー
  4. ウミウシ好きな子どもたちへ。『新版 ウミウシ』図鑑の小野にぃにぃインタビュー

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コメント

  1. 藤村りゅうが より:

    とても良い記事でした。
    小野さんのモチベーション的な部分やなぜ関わるようになったかの理由が掘り下げられていて面白かったです。
    好きな事に熱心に取り組み、それが色んな仕事に繋がっていっているなと感じました。

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